物語を知るにはいつだって

安い絶望のために死にたいと思ったことがある。突然莫大な借金を背負わされたとか、最愛の人を亡くしたとか、ドラマチックな何かがある訳じゃなかった。ただ自分の弱さを淡々と突きつけられる日々や、大好きなパートナーを理解できない毎日に嫌気が差したのだ。明日も同じように朝を迎える。たったそれだけのことが億劫で仕方がなかった。

 

こういう時タイミングが悪かったのだと、親しい人は声をかけてくれる。私に非はないけれど、何も間違っていないんだけど、どうしようもないよね、と。行き場のない感情はますます私を孤独にした。平凡なくせに普通にはなれないなんて。自分のステータスを数値化した時、その総合値にマイナスがついているように思えて、なんだかとても惨めだった。

 

もっと分かりやすく悪者になれたら良かったのだ。もしくは、分かりやすく終わりを見せてくれたら良かったのに、と思う。

家も服も飯もあり、誰が見ても可哀想な家庭ではなく、恵まれていた。私の道は大人の手で補正されていて、この道を真っ直ぐ歩けないのは私のせい以外にないと言われている気分だった。

 

すごく息苦しかった。

このクソみたいな感情を救ってくれたのが創作物だった。小説や映画、微熱のような日々を生きる私の背中をそっと撫でてくれる作品に出会うと、私は少しだけ息がしやすくなった。

物語を知るにはいつだって経験が必要だった。

私がこのクソみたいな経験を重ねて、ふと本棚に目をやると昔読んだ本が目に止まった。タイトルなのか、その表紙を思い出したからか。理由はなんにせよ吸い寄せられるようにその本に手を伸ばし読み返した。

時間が流れる音を感じながら静かにページをめくっていると、涙がこぼれたのだ。嬉しかった。この本を読んだ当時理解できなかった僅かな文章に私と同じクソみたいな感情にひっかかっている主人公がいたこと。この何でもない感情を見つけてくれる人がいたこと。物語の何が動くわけでもないそのワンシーンが、私を楽にしてくれた時、安い絶望さえ間違いではなくなった。誤魔化しだと思うだろう。その有難みが、尊さが染み入る優しさに変わったことは私にだけ絶対の事実だった。

 

創作物があるから、色んなものに触れるから、この傷も愛しさに変えられる。誰かが肯定してくれた。それだけで生きていけるから、私は明日も恥をかいて傷を増やすのだ。