弱虫は真っ直ぐ歩けない

私がまだ制服に腕を通していた頃、私を縛るものはたくさんあって、当時の私の目でみれば世界は厳しかった。理解のない父親、押しつけがましい先生、上っ面の友情を見せつけあう友達。この世界の間違っているところを挙げようと思えばいくらでも挙げられただろう。

 

私がいくら弱いままでも、私より間違っているものがあるということを理由に、ありのままでいられた。

もう少し砕いて説明するなら、朝起きれなくても課題を提出できなくてもどれほど学力が上がらなくても、子どもの心を無視していく大人たちや誰かを傷つけていた友人より自分は大丈夫だと思っていたのだ。言い訳なんて探そうと思えばいくらでもある。そんな世界に生きていた。そんな世界でしか生きてこなかった。

 

私はそんな世界が嫌いだった。

ただ一点。自分の弱さに目を向けなくて良かったのは、確かに良かった。

しかしそれ以上に、自分の常識と目の前のイレギュラーを正常にしてくれる大人がいて欲しかった。曖昧なまま何故か許されているものがたくさんあって、制服という拘束具に抗えない私は、むず痒いそれらに手が届かなかった。

 

昔から正しいものは正しくあって欲しかったし、間違っているなら罰を与えて欲しかった。私自身要領の悪い人間だから、何かを信じるには他者とのすり合わせが必須だった。他人の顔色を伺い、誰かが望んでいる役回りを率先して行うような自我の薄い私にとって、私の選んだものはゴミ以下でしかなく、その選択を肯定してくれる友人や、真っ向からゴミだと否定してくれる先輩が必要不可欠だったのだ。他者に委ねきってはいるものの、その羅針盤が常に正しく在る世界でなければ、私は満足に呼吸すら出来ない。故に羅針盤だけは正常であって欲しいと切に願っていた。

 

いくら歳を重ねたって、こんなガラクタ同然の羅針盤に頼らなければ、私は真っ直ぐに歩むことさえままならない。

世界は他人との共生によって成り立つのだから、他人にとって害のないもので在ろうとする諸悪の根源のような私の根っこにあるこの感情は、どうやったって独りでは退廃させることが出来ず、世界も羅針盤も対抗馬として余りに弱かった。

 

変われなかった。

世界への不満をいくら垂れ流そうと、つまるところその全てにいいように扱われた私こそ最たる嫌悪の対象なのである。足が二本ついていようが、両親がどれだけ真摯に向き合ってくれようが、脆弱なのは何よりも精神であり、ずっと胸の奥には小さな頃の私がうずくまっている気がする。

 

誰がどんな道を選ぼうと、回り道をしようと、その足で真っ直ぐ歩いていること。その事実が素晴らしいのだと私は言いたい。決して真っ直ぐではなかったとしても、途方もないエネルギーを使って自分の人生を突き進んでいる貴方は、きっとほんの少し大人なのだ。

 

 

世界を疑い、賞賛をまともに受け取れない、どこかでねじ曲がってしまった感性も一旦全て忘れて欲しい。貴方の胸の内から幼い頃の貴方が顔を覗かせているじゃないか。少しくらい胸を張ってみてくれ。

そうすればきっと、秋の風が少しだけ体に入ってくる。思わず見上げた空はまだ明るかった。ほんの少し欠けた月と目が合った。何故かそれは子どもの頃よりもずっと美しく思えた。